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対談

対談 福岡市民病院 桑野院長に聞く

語る人

福岡市民病院院長
桑野 博行

聞く人

遠賀中間医師会おんが病院・
おかがき病院総括院長
「臨牀と研究」編集委員
杉町 圭蔵

杉町
桑野博行先生におかれましては,この4月に福岡市民病院の院長にご就任になったばかりで,何かとお忙しい中,本日は『臨牀と研究』の対談においでいただきまして,どうもありがとうございました。
桑野
こちらこそ,ありがとうございます。今日まで慈悲深く,時には厳しく,また,時には温かく育てていただきました恩師,杉町圭蔵先生と対談をさせていただきますこと,心から光栄に存じております。また,このような機会を賜りました『臨牀と研究』のご関係の皆様,大道学館の方々に深謝申し上げます。
 福岡市民病院も当初,旧筑紫郡堅粕町及び千代町の共同運営による西堅粕伝染病院が両町の福岡市合併を機に市立病院(松原病院)へ移行しました。この昭和3年,1928年を起点とすると,本年で90周年となります。今日まで当院の発展にご尽力された多くの皆様方を初め,それを温かくご理解,ご支援いただきました大学,医療関係の皆様,福岡市関係の方々,そして市民並びに近隣住民の皆様に心から感謝しつつ,このような自治体病院の病院長を拝命いたしましたことを心から光栄に存じ,また,責任の重さを痛感いたしているところでございます。
杉町
群馬から福岡に引っ越されて,群馬での仕事の引き継ぎや福岡での挨拶回りでお忙しかったでしょうが,もう落ちつかれましたか。
桑野
遠方からの異動となりまして,ご挨拶などが遅くなり,ご無礼も多かったと思いますが,一応ご挨拶も含め落ちついたところです。後ほど申し上げますが,幸い九州大学から調教授にお見えいただきまして,2年4ヵ月の間,一緒に仕事をさせていただきましたので,そういった意味での引き継ぎは,非常にスムーズにいったかと思っております。

「臨牀と研究」はもうすぐ創刊100年になります

杉町
この『臨牀と研究』は,毎月,臨床の最前線の情報をお届けしていまして,開業医の先生方に広く読んでいただいておりますが,1924年に創刊されていますので,もうすぐ創刊100年になるという非常に歴史と伝統のある雑誌です。
桑野
『臨牀と研究』につきましては,学生時代から読ませていただき,特に興味がある特集の際には熟読させていただいたことも記憶に残っております。また,赤ページや青ページも大変興味深く,医学・医療に限らず幅広く学ばせていただきました。群馬大学在任中にも毎月送っていただき,自分自身が書かせていただいたことも多く,楽しみにいたしておりました。さらに大道学館からは,私ども昭和53年卒の全国の外科の仲間が執筆し,九州大学第一外科出身の医学史に詳しい佐藤裕先生の監修のもと,私が編集をさせていただきました『外科学温故知新』を出版していただき,大変ありがたく思っております。
杉町
ところで,先生は,今おっしゃったように,九大医学部を昭和53年に卒業されていますが,たしか学生時代はサッカーをされていましたね。
桑野
ええ,学生時代はサッカーに明け暮れておりました。
図1 九州大学第二外科サッカー部出身のメンバー

九大第二外科に入局された動機は何だったのですか?

杉町
卒業後,九大の第二外科に入局されていますが,当時は井口潔教授だったでしょう。
桑野
当時のサッカー部の部長が井口潔先生でした。九大の第二外科には,昭和48年卒,福岡市民病院の前院長で,現在は地方独立行政法人福岡市立病院機構理事長の竹中賢治先生,それから,昭和49年卒で,かつて食道グループにおられた現うえお乳腺外科院長の上尾裕昭先生以来,久々に私が昭和53年に入局させていただきました。以後,毎年多くの仲間が入局し(図1),また,その後,杉町先生がサッカー部長として,お力を尽くしていただいたという経緯がございます。
杉町
第二外科を選ばれたのは,サッカー部の先輩の竹中先生や上尾先生の影響が大きかったのですね。
桑野
それも本当に大きかったわけでありますけれども,私は元来,自分自身に少々甘いと思っておりましたので,厳しいと思われる教室を考えました。また,専門的には癌と救急に携わりたいと思い,当時は現在に比べて救急体制が確立しておらず,外科や麻酔科が救急医療とその教育を担っていたこともあり,外科を志したという経過がございます。
杉町
入局されたころの苦い思い出や,甘い思い出は何かありますか。
桑野
大学では多くの救急の患者さんが来られ,大変勉強になりました。大学に遅くまで残って緊急手術の準備をしたり,手術に入らせていただいたり,また,当時多かった食道静脈瘤出血の患者さんの輸血の準備や処置に走り回ったのは,今となっては良い経験だったと思います。そして,このようなときに先輩から教えていただいた多くのことはずっと忘れずに覚えております。
 また,皆さん大変な忙しさの中におられましたけれども,今振り返ってみると,上級医から若手先生まで,みんなまぶしいくらいに光り輝いておられたように思います。今,私どもがある程度経験を持った外科医として若い方に輝いて見えるかどうかは少々疑問で,今こそ再び我々外科医が輝きを持って,若者に接することが必要ではないかと実感しております。
杉町
先生の1年先輩には前原教授がいますし,1年後輩には慈恵会医科大学の矢永勝彦教授や橋爪誠教授,2年後輩には大阪大学の森正樹教授,近畿大学の光冨徹哉教授,そうそうたるメンバーがいましたね。
桑野
本当に尊敬する先輩,特に身近な先輩には,その生き方を大いに参考にさせていただきました。また一方,素晴らしい身近な後輩の皆様にも恵まれました。講演会などでは時々,「聴衆の皆さんには尊敬する先輩は多くおられることと思いますが,私の密かな自慢は尊敬する後輩に恵まれたことです」と申し上げております。
杉町
九大にいらしたときは食道癌を一緒にやっていましたが,その節は大変お世話になりました。
桑野
杉町先生には,外科医の基本から外科全般,そして食道外科を中心とした消化器外科における技術,考え方,診療,教育,そして研究の姿勢などをご教示いただき,また,人間としての生き方を多く学ばせていただきました。本当に心から感謝しております(図2)。
図2 仙台での乳癌研究会で杉町先生を囲んで上尾裕昭先生と桑野

「癌の領域発生説」はこれからも永遠に輝き続ける素晴しい業績ですね

杉町
先生は,大学院では病理学教室に行かれましたから,外科病理に関する素晴らしい業績が多かったですね。
桑野
当時,杉町先生に,九州大学第二病理学の遠城寺宗知先生のもとで勉強するようにお勧めいただき,遠城寺先生のご専門の軟部腫瘍,及び食道癌の発生と進展に関する研究をさせていただく機会をいただきました。その後,一連の研究を続けて今日に至っているということでございます。
杉町
先生の業績の中で,今も燦然と輝いているものに,『Cancer』に掲載されたfield carcinogenesisというのがありますね。これは,癌が発生するときには,細胞が1個だけ癌化して,それが2個,4個,8個という数になっていくのではなくて,ある程度の領域で癌が同時に発生して,癌が広がっていくということを証明されていますね。
桑野
これも杉町先生に研究の機会を与えていただき,また,サジェスチョンいただいた賜物です。食道癌というのは扁平上皮癌で,ほとんどそればかりと思われていたのですが,あるとき,ふと見ますと,少し腺癌に類似した分化をしたところがあるということに気づきました。これはほかにもあるかもしれないということで,2日か3日徹夜して全標本をわくわくしながら見ていたことを覚えております。それが端緒となり,扁平上皮だけではなく,食道固有腺も含まれた癌化というのが考えられる一つの発癌形式ではないかと。その後,また食道内の多発癌とか他臓器重複癌,そういった研究にも携わらせていただきまして,それを「癌領域発生」という形で世に問うことになった次第でございます。
杉町
この業績は今でも燦然と輝いていますね。永遠に輝き続けるでしょうね。それまでにこのような事を言った人はいませんでしたからね。私はこの業績は素晴らしいと思っています。最近では,炎症によって癌が起こること。例えばピロリ菌と胃癌,肝炎ウイルスと肝癌,ヘルペスウイルスと子宮頸癌においては,その炎症に伴って癌が発生すると言われていますけど,これらは,まさにその領域で炎症が起こって癌がずっと発生してくるわけですね。これがいわゆるfield carcinogenesisという癌領域発生でしょうね。
桑野
はい,そう思います。
杉町
食道癌は,通常は扁平上皮癌ですけど,扁平上皮癌と腺癌が一緒に混在しているということを桑野先生が発見しまして,これはおかしいということになりました。よく見ると扁平上皮癌と腺癌が併存している症例が何例もみつかりました。そこの領域から癌が発生しているだろうということになりました。これは世界で初めての考え方ですけれども,今もこの考え方は生きていますね。
桑野
ありがとうございます。単に1個の癌が2個,4個,8個ということだけでは,時間的にもとても……。もし臨床的に目に見えた癌であるとすると,遡ると,十何年以上前に起こったということになる。果たしてそればかりだろうかということになりますし,複数の癌細胞,もしくは癌細胞が周囲の細胞を悪性化する,そういったことがやはり癌化の可能性として一つあるのではないかということです。
杉町
この業績は,本当に素晴らしいですね。一生のうち一つでもこういうことを発見できればよいのですけどね。桑野先生の業績はこれからも燦然と輝いていくでしょうね。
 先生は,1994年に九大第二外科の講師,97年に助教授,98年には群馬大学の第一外科の教授と,順調に昇進され,群馬大学には19年いらしたのでしょうか。
桑野
これも杉町先生を初め,多くの先生方のご指導をいただき,若輩ながら,杉町教授のもとで食道グループのチーフをさせていただきまして,手術,診療,研究,教育に携わらせていただいたことが大きいと思いますし,本当に心から感謝しています。そして,平成10年5月に群馬大学に赴任いたしましたので,ちょうど45歳のときに群馬大学に迎えていただいたということになります。したがいまして,正確には19年11ヵ月,群馬で働かせていただいたということになります。

群馬は如何でしたか?

杉町
きょう岐阜では気温が40℃以上になったという話を聞いていますけど,群馬は,夏は暑くて,冬は寒いところですね。
桑野
そうです。群馬のあの地域は,夏は暑く,先日,7月15日には前橋でも39℃を超えたということが報道されておりました。また,冬は寒く,からっ風で有名です。平成27年11月に,九州大学から群馬大学の肝胆膵外科教授に赴任された調憲教授が,赴任直後にからっ風の強さに驚いたことを現地の人に話したところ,「この程度はそよ風ですよ」と言われたという笑い話なんかもございます。からっ風で空気は乾燥しておりますけど,人情に厚く面倒見のいい方ばかりでした。
杉町
群馬は東京に近いこともありまして,医学生や医学部教官も東京出身の方が結構多いのでしょう。
桑野
はい。群馬大学も70年以上の歴史がございますし,教官としては,群馬大学出身の先生が最も多いことは事実でありますが,やはり最近はかなり少なくなりましたが次は東京大学からの先生が多いようです。学生も,地域枠がありまして,東京,埼玉,栃木,神奈川,千葉,茨城出身が多く,そちらへ戻る方も多いようですけれども,残る方もかなりいます。また,九州出身もある程度おられますので,私も以前,教官,学生を含めた九州出身者の会を時々催しておりました。
杉町
ところで,群馬大学の第二外科では,医療事故が大きな社会問題になりましたね。
桑野
皆様にはいろいろとご心配をおかけした上に社会問題化し,患者さんはもとより,医療関係者を初めとして,多くの皆様にご迷惑をおかけして,大変申しわけなく思っております。
杉町
これは一言で言うと,どんな事故だったのでしょうか。先生はあまりご存じないかもしれないですけど。
桑野
詳細は,群馬大学医学部附属病院医療事故調査委員会の報告にございますけど,限られた外科医の間で腹腔鏡下肝切除の手術適用と方針が決定され,期待されざる結果が発生した後も,十分な見返しがなされずに,不幸な結果が繰り返されたということだと存じます。
杉町
九大でもそうですけど,第一外科と第二外科では全く独立して診療を行っていますから,先生は,第一外科の教授という立場では,第二外科のほうで何が起こっているのか,いろいろと報道されるまで全くご存じなかったのではないですか。
桑野
つまびらかに状況を把握することは,いささか難しい状況にはございました。
杉町
後になってから,第三者が第一外科に対していろいろと勝手なことを言うのはちょっとおかしいですよね。
桑野
ただ,同じ大学組織に身を置いて,しかも外科を標榜している者としての責任は十分に痛感しております。
杉町
私が福岡で新聞やテレビ報道などを見て感じたことは,第二外科の教授と実際に執刀した外科医には責任があると思ったのですが,いかがでしょうか。
桑野
やはり同じ大学組織にいる私どもも含めて,患者さん,医療界,そして社会に対する責任があると,申しわけなく思っております。

群馬大学の外科を臓器別に改組されましたね

杉町
その反省を含めて,先生は群馬大学の組織を大きく変えたとお聞きしていますが,どのように変えられたのですか。
桑野
まず喫緊の問題として,旧第一外科と旧第二外科を統合し,平成27年4月1日に外科診療センターを附属病院に設置いたしまして,診療部門を,消化管外科,肝胆膵外科,呼吸器外科,循環器外科,乳腺・内分泌外科,小児外科の6診療科による診療体制といたしました。そして,この独立した肝胆膵外科の教授公募を行い,外部委員にも入っていただいた選考委員会の厳選な議論を経て,九州大学から調憲教授が教授会で決定され,平成27年11月1日に着任されました。その後,平成28年,2016年4月からは形成外科が診療センターに加わり,7診療科体制となりました。
 今回,指摘された問題点も踏まえ,九大時代,それからまた群大での私どもの教室でも以前から行っていたことではありますけれども,患者さんの初診から,1. 診療科のカンファレンス,2. 内科・放射線科など他科や他職種を含めたクリニカル・ボード,3. 外科診療センターにおける術前カンファレンス,また,その後の手術などの治療,さらに手術報告,術後経過報告を経て,問題があれば,4. 合併症,M & M カンファレンスという,4段階カンファレンス形式を徹底いたしました。そして,手術予定患者,入院患者,そしてその週の死亡症例全例の報告を行う。先ほどの3. で申し上げました外科診療センターのカンファレンスでは,全員で全例を見るということで,百数十例の患者を検討するため,当初は時間をかなり要しておりましたが,少しずつ効率的になってまいりました。ただし,手抜きは許されません。
 ここで私どもの考えとして,「ガバナンスとは,決して強制的な上意下達だけの統治を意味するものではなく,その組織に係る全てのメンバーが主体的に関与する意思決定,合意形成のシステムであり,全職員がたゆまずこれを意識し,一丸となって不祥事の防止に取り組んでいかねば目的は達成されない。」という考えに基づいて頑張ってまいりました。また,それぞれの患者担当の診療科以外からの意見も極めて重要であり,学生や若手外科医の教育にも有用でした。さらに,私も含めた多くの医師が,自分の専門外の分野の知識を数多く得られるというありがたさも心から感じました。
 このような状況のもと,診療分野の統合に加え,その2年後の平成29年,2017年4月には,医学部も含めた大学院講座も統合し,大講座,総合外科講座が発足いたしました。このことにより,診療,教育,研究はもとより,さまざまな行事も含めた事業,そして人事や予算に関しても一括して遂行する体制となりました。私が担当しておりました病院組織としての外科診療センター長,それから大学院組織としての総合外科学講座には,平成30年3月の退任後,4月より調憲教授がご尽力いただいており,今日に至っております。
杉町
その改革の過程でのいろんな困難な問題,例えば関連病院との関係などはどうなったのでしょうか。
桑野
それが最も大きい問題で,おのおのの関連病院を含め,多くの外科医の方々の不平不満を謙虚に聞きつつ,気持ちの持ち方や思いにできるだけ寄り添い,一方で,基本方針は貫く覚悟でございました。ほとんどの外科の方々,病院関係の皆様と一人一人お会いしました。そして,お話を伺いながら,当方の考えも伝えて,規則やルールなどを確立していくことで,事は次第に動いてまいりました。いわゆるハード面も大変でしたし,人の心や気持ちにかかわるソフト面はより大変でしたが,多くの方々の賛同をいただいたことは幸いでありました。

外科学会を主催されてご苦労も多かったでしょう

図3-1 第117回日本外科学会定期学術集会 ポスター
図3-2 第117回日本外科学会定期学術集会群馬大学スタッフメンバーと「ぐんまちゃん」
図3-3 第117回日本外科学会定期学術集会会頭講演後,井口潔先生,杉町圭蔵先生,前原善彦先生,調憲先生方と
杉町
九大の外科は旧態依然として,今も100年前と同じように,2つの外科でほとんど同じ診療を行っていますので,早く九大も臓器別になってくれたらいいなと,外野席から願っています。
 ところで,第117回日本外科学会の会頭をなさっていますが,大きな学会ですから,準備が大変だったでしょうね。
桑野
私も,杉町先生が開催された第99回が見事に成功した記憶をもとに事に当たりましたが,いろんなことがございました。
 まず開催場所については,当初は群馬も考え,知事など行政にも幾度となく相談いたしましたけれども,何といっても前提となる会場と宿泊のキャパシティーが絶対的に足りずに,横浜で開催させていただくことになりました。横浜は多くの方々にはアクセスが非常に良く,主催校からは少し離れておりましたけれども,無難に開催することができたと思います。
 また,私が次期会頭に決定した後,群馬大学の医療事故に関してさまざまなご意見を頂戴いたしました。しかしながら,何とか開催に至りましたことは,杉町先生,前原先生を初め,九州大学の先生方や群馬大学の方々の支え,それから多くの外科の先生方,さらには多くの皆様のご支援の賜物と心から感謝しております。
杉町
これに参加したのは何人ぐらいですか。
桑野
正確には1万5,726名と,過去117回の歴史の中では最も多い参加人数でございました(図3-1,-2,-3)。
杉町
すごいですね。そうしますと,学会期間中は外科医が横浜に集まって,地方には外科医がいないという状況だったのですね。
 最近,先生が主催された第117回日本外科学会の記録集を読み返してみました。メインテーマとして「考える外科学」を取り上げていらっしゃったのですが,それには何かお考えがあったのでしょうか。
桑野
この外科学会のテーマは,「医療安全そして考える外科学」ということでございました。この「考える外科学」をテーマの一つといたしましたのは,日常の外科診療の中で当然のこととして本質的議論がなされないままに,いわば置き去りにされているような命題を正面から捉え直してみたいという思いを込めたものでありました。
 通常の学会ではあまり議論されないようなテーマ,1. 臓器移植におけるドナー・グラフト年齢を考える。2. 認知症を有する症例に対する心臓血管手術を考える。3. 内視鏡手術で覆った開胸・開腹手術の常識を考える。4. 食道扁平上皮癌におけるfieldcarcinogenesis を考える。5. H.pylori 陰性時代の胃癌の動向と治療を考える。6. 神経内分泌腫瘍(NET)の生物学的多様性を考える。7. 各臓器における上皮内癌(非浸潤癌)および上皮内進展の位置付けを考える。8. 肺扁平上皮癌を再び考える-発生のメカニズム-。9. 内視鏡手術,solo surgery 時代の外科教育を考える。10. 小児疾患における`自然退縮’を考える。11. 転移性肝腫瘍における原発臓器別特性と治療のあり方を考える。という11のテーマを掲げさせていただいた次第でございます。
図4 群馬大学総合外科学教室10ヵ条

若い外科医の育成に力を注がれていましたね

杉町
かなり広い分野にわたっていますね。
 先生は約20年余り群馬大学の教授をされ,在任中に第一外科には100名余りの方が入局して先生のご薫陶を受けておりますし,教室から9名の教授を輩出されていると聞いておりますが,すごいですね。
桑野
もちろん九州大学には素晴らしい方々が多いのですが,群馬大学にも本当にいい方がいっぱいおられました。私,医学部の入試に通ってきた人であれば,入試時の偏差値の違いはあるものの,出身大学にはさほど大きな差はなく,最も大切なのは,やる気と,それに伴って業績を上げたり,学会で企画演題に通ったりすることを誇りにすることだと考え,「一流の外科教室の道を求めて」という10ヵ条の項目を立てて(図4),少しでも一流に近づくように実践してまいりました。どれだけのことができたかはわかりませんけれども,その第1条に,「医学を志す若者にとって魅力的で入局したい教室であること」を掲げております。また,今お話しいただきました教授の輩出に関しましても,第4条で「数多くの教授を輩出していること」を目標の一つに掲げて,それをささやかながら実践してきたということでございます。
杉町
先生ご自身は,どんな困難な局面にぶつかっても言いわけをしないとか,人のせいにしないという生きざまをこれまでずっと実践してこられて,本当に素晴らしいですね。
桑野
これは杉町先生のご薫陶の賜物と思っております。とにかく何があっても,他の人,他の診療科,他の医療職種のせいにしてしまえば,外科医の誇りはなくなってしまうと思ってまいりました。また,ほかの方々との信頼も失せてしまい,より良いチーム医療は成立しないと信じてまいりました。もし他に非があったとしても,自分の責任としてそれを正面で受け止めることによって,自分の外科医としてのプライドは保てるだろうと,それから,若い人も含めた外科医のあり方はそういうことだろうと思っております。先ほども申し上げましたように,このことは今まで,杉町先生を初め,育てていただいた皆様方のご指導の賜物と感謝しております。
杉町
40年ぐらいおつき合いしているのですが,先生のご趣味というのは全く聞いたことがありません。ご趣味は勉強以外に何かありますか。
桑野
私は水泳をやっております。大学ではサッカー部,中学,高校では水泳部でした。当時,九大にはあまりいいプールがありませんでした。今でも水泳は昔を思い出してやっております。水泳は,都合のいい時間に行って,ほかの人に迷惑をかけることなく,自分のペースでやれるのがメリットだと思っています。福岡に帰ってきて今はまだ見つけていませんけど,群馬ではコナミにも行っていました。
杉町
先生が泳がれることを初めて知りました。金づちかと思っていました。
 最後に,抱負をお聞かせいただけますか。
桑野
月並みですけど,どのような社会環境になっても,若者がより多く医学,特に外科学を志して,また探究心を持って学問に打ち込み,同時に社会人として高潔な人となっていくような環境を作ることに,微力ではありますし,浅学非才ではありますけど,力を尽くしたいと思っております。
杉町
本日はお忙しいところおいでいただきまして,本当にありがとうございました。日ごろはなかなか聞けないような面白い話を本音で伺うことができました。
 福岡市民病院のますますのご発展と,桑野先生のご健勝をお祈りいたしまして,この対談をとじさせていただきます。本日はどうもありがとうございました。

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